趣意書

会津は石部桜、薄墨桜、虎の尾桜、杉の糸桜、大鹿桜の五桜、太夫桜、千歳桜、神代桜のうちの2つを加えた七桜、鶴ヶ城の桜、などに代表されるような桜の郷です。
しかしながら、会津の桜観光には数十万の人出ですが、弘前の桜祭りには200万人以上の人出で賑わうそうです。
その差は、桜の本数と維持管理にも一因があるかもしれません。
鶴ヶ城の桜は約千本といわれていますが、弘前城は四千六百本余と四倍以上と大差です。
弘前城では、防除、補植などの管理が通年行われており、城郭の桜「日本一」いや「世界一」と自負するだけのことはあろうかと思います。
駐車場は、市役所周辺にごく僅か、後は約2km近く離れた岩木川河川敷の無料駐車場とアクセスは悪いにもかかわらず、200万人以上の人出です。
そこで私達は、鶴ヶ城を弘前城に次ぐ「世界第二」の城郭の桜の名所にしたいと考えました。
弘前城に学び、『心のよりどころ』鶴ヶ城を桜で一杯にしたいと思うのです。
多くの人がカを合わせ、鶴ヶ城を桜の園にしたい、新しい会津の歴史と伝統を作っていきたいと考えています。
また、会津の漆は蒲生氏郷の時代に根付き、松平時代の名家老田中玄宰(はるなか)の殖産政策により興隆し、会津塗りとして発展してきました。
しかしながら、今会津の漆はごく僅かしか生産されていません。主に外国産の漆に取って代わられています。
漆の木は、その樹液が漆器に塗られ、実を絞るとろうそくの原料となる漆蝋(うるしろう)がとれます。
そのため、会津藩では重要な産物として、山役所に漆木役(うるしぎやく)を設け、漆の栽培を奨励していたほどです。
明治維新後、山林の多くは国有地となり、会津藩の保護制度も無くなり、漆の栽培は急速に衰退しました。
その衰退を危慎した会津の偉大な先達『初瀬川健増』(1851~1924)は、「漆蝋制度秘書」を著し、漆の有用性を説き、さらに「漆樹栽培書」によりその普及を図りました。健増の栽培昔及は、日本はもとより国外にまで及んだそうです。
そこで私達は、会津の漆器と絵蝋燭を会津産の「漆の木」で作りたいと考えました。初瀬川健増に学び、会津の山の谷に漆の木を植栽し、15年後の漆と漆蝋の成長を実現させたいと思ったのです。
会津本漆と絵蝋燭を地産のもので再興し、新しい会津の歴史と伝統を作っていきたいと考えています。
同様に藍・棉の栽培を進め、藍染め・会津木綿の再興にも取り組みたいと思っております。
背灸山や小田山・青木山の自然を保全し、児童の自然環境体験、多世代間交流、林間学校などの活動もしたいと考えております。
これからの会津をになう次世代に、新しい歴史と伝統を育み、伝え、希望の光差す会津を作りたいと切に思うものです。
この趣旨にご賛同の上、会員としてご加入いただき、ご支援を賜りますよう心からお願い申し上げます。

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